薬剤師養成教育機関を創学し、
日本の医薬分業に貢献
創学者 恩田重信
1900(明治33)年、帝国議会に「医薬分業法案」が提出された。法案の目的は、欧米諸国と同様に日本も医・薬を分業し、国民の健康向上を目指すことにあった。
法案はほぼ通過するかと思われたが、「日本は医師の数に比べ薬剤師の数が少なすぎる。現状では分業を実施しようとしても成り立たないだろう」という反対演説により否決された。
医薬分業を目指す人々は落胆したが、その中でひとり、「分業の実現には薬剤師の増員が不可欠。ならば薬剤師を養成する教育機関をつくろう」と決意し、実現させた人物がいる。本学の創学者 恩田重信である。
法案否決から2年後の1902(明治35)年、恩田重信はその言葉どおり、神田区三崎町(現千代田区三崎町)に「東京薬学専門学校」を開校する。開校当時は大成学館の一室を借り受け、学生14人からの出発であった。
1906(明治39)年、創立より5年の歳月が経過、「明治薬学校」と改称し、学生数も200人を越えるまでになっていたが、未だ自前の校舎を持つには至らなかった。6回もの移転を余儀なくされ、独立校舎の必要性を痛感していた折、恩田は紀尾井町の私立誠思小学校が売りに出されていることを知る。そこで、自著である『新医学大字典』の印税と知人からの借金を合わせて同校舎を買収。1907(明治40)年7月より、初の独立校舎での講義が始まった。以来、記念すべき紀尾井町のこの地は、本学発祥の地として歴史に刻み込まれている。
創学者 恩田重信(剛堂) 年譜
1861年 | 文久元年 | 6月 | 信州松代藩真田家家臣 恩田十郎時篤の長男として松代にて出生 |
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1879年 | 明治12年 | 12月 | 東京大学医学部製薬学科入学 |
1882年 | 明治15年 | 3月 | 内務省衛生局東京司薬場に勤務 |
6月 | 東京大学医学部製薬学科卒業 | ||
11月 | 千葉医学校二等助教諭兼同校附属病院調剤官 | ||
1884年 | 明治17年 | 8月 | 千葉医学校附属病院薬局長 |
1885年 | 明治18年 | 1月 | 千葉医学校附属病院薬局長依願免官 |
10月 | 陸軍薬剤官試補、仙台鎮台病院薬剤科出仕 | ||
1886年 | 明治19年 | 7月 | 陸軍三等薬剤官、仙台鎮台病院附 |
11月 | 正八位に叙せらる | ||
1887年 | 明治20年 | 10月 | 新発田分営重病室附 |
1888年 | 明治21年 | 11月 | 新発田衛戍病院附 |
1889年 | 明治22年 | 11月 | 仙台衛戍病院附、陸軍二等薬剤官 |
1891年 | 明治24年 | 3月 | 松山衛戍病院附 |
12月 | 従七位に叙せらる | ||
1892年 | 明治25年 | 3月 | 広島衛戍病院附 |
1893年 | 明治26年 | 11月 | 高崎衛戍病院附 |
1894年 | 明治27年 | 8月 | 動員、第一師団衛生予備廠附 |
9月 | 出征(日清戦争) | ||
1895年 | 明治28年 | 6月 | 大本営附、台湾出張 |
8月 | 台湾総督府陸軍局軍医部附、陸軍一等薬剤官 | ||
10月 | 勲六等に叙せられ、単光旭日章を賜る | ||
11月 | 従軍記章を賜る | ||
1896年 | 明治29年 | 3月 | 名古屋衛戍病院附、正七位に叙せらる |
1897年 | 明治30年 | 6月 | 休職 |
1902年 | 明治35年 | 3月 | 東京薬学専門学校を設立し、初代校長に就任 |
6月 | 予備役編入、従六位に叙せらる | ||
1904年 | 明治37年 | 2月 | 予備召集、近衛師団衛生予備廠附、出征(日露戦争) |
7月 | 病気のため帰国、広島予備病院入院、東京予備病院渋谷分院転院 | ||
8月 | 退院、東京第二衛戍病院附 | ||
10月 | 東京予備病院附、同世田谷分院附 | ||
11月 | 東京予備病院戸山分院附 | ||
1906年 | 明治39年 | 1月 | 召集解除 |
2月 | 陸軍三等薬剤正 | ||
4月 | 勲五等に叙せられ、双光旭日章を賜る | ||
1907年 | 明治40年 | 3月 | 東京女子薬学校を設立し、初代校長に就任 |
1919年 | 大正8年 | 3月 | 東京女子薬学校校長を退任 |
1920年 | 大正9年 | 2月 | 財団法人明治薬学校理事長に就任 |
1923年 | 大正12年 | 3月 | 明治薬学専門学校の初代校長に就任 |
9月 | 関東大震災により校舎を焼失、再建資金調達の全国行脚へ | ||
1926年 | 大正15年 | 10月 | 財団法人明治薬学専門学校理事長を退任 |
1928年 | 昭和3年 | 11月 | 昭和天皇即位の大礼に際して教育功労者として表彰される |
1931年 | 昭和6年 | 5月 | 財団法人明薬学園総理に推戴される |
1932年 | 昭和7年 | 4月 | 明治薬学専門学校校長を退任し、引退 |
1940年 | 昭和15年 | 11月 | 紀元二千六百年記念祝典に際して教育功労者として勲四等に叙せらる |
1944年 | 昭和19年 | 3月 | 郷里長野県松代に疎開 |
1947年 | 昭和22年 | 7月 | 郷里の生家にて逝去、享年87歳(菩提寺は、松代町の真田山長国寺) |
10月 | 明治薬学専門学校世田谷校舎講堂にて学園葬を挙行 |
創学者 恩田重信先生の生家
国登録有形文化財 旧恩田邸
長野県長野市松代町松代字竹山町1506番地に所在する創学者恩田重信先生の生家(旧恩田邸)は、屋敷門と塀のある約300坪の敷地に、萱葺き屋根の母屋、土蔵、庭園を備えた江戸時代末期の武家屋敷です。周辺は長野市の伝統環境保存地区に指定されており、旧恩田邸が松代町の大変貴重な建物のひとつになっています。
旧松代藩の武家屋敷の特長を伝える旧恩田邸は、歴史的景観に寄与しているものとされ、母屋と土蔵が平成26年4月25日付文化財登録原簿に登録されました。
母屋
土蔵
庭園
表門
旧恩田邸(恩田重信先生の生家)への行き方
所在地 | 長野県長野市松代町松代字竹山町1506番地 | |
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交通 | 鉄道 | 東京から長野新幹線でJR長野駅下車、 長野駅東口タクシー乗り場からタクシーで 約30分 |
バス | アルピコ交通(旧川中島バス) JR長野駅善光寺口バス乗り場から古戦場経由松代行きで 「松代八十二銀行前」まで 約30分 、 「松代八十二銀行前」バス停から 徒歩 約10分 |
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車 | 上信越自動車道・長野ICより車で約10分 | |
目標 | 幕末の思想家 佐久間象山を祀る「象山神社」のすぐ側です。 |